自己紹介シリーズ | ブログ

自己紹介シリーズ:井原 縁(理事)

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秋のとある一日、学生たちと春日山原始林を抜けて、若草山山頂までポクポクと歩きました。

山頂から見た奈良のまちは、本当に美しかったです。背後に深い緑の山々が連なり、眼前の市街地にも緑地が楔状に入り込んでいる。

なんだか包まれているような、優しい気持ちになりました。大らかな自然と共に在り続けている、優しくて、美しいまちだと思いました。

そんな奈良のまちに暮していることを、とても誇りに思いました。

なら国際映画祭の準備に関わるようになって、3年目になろうとしています。 

「映画」というのは、人間の奥深いところにあるいろんな感情を揺り動かし、
呼び覚ます媒体だと思います。 

質の高い映画が、奈良のまちのあちこちで上映されるということは、
多くの人々が、この場所で忘れられぬ感情体験をすることにもなります。

なら国際映画祭に集う人たちの、忘れられぬ、かけがえのない思い出と共に、
その舞台となった奈良のまちの美しさ—
大らかな自然と、それと共に生きてきた人間の営みが織り成す美しさ—
それらがずっと在り続けることを、心から願っています。 

そのような人の思いの集積こそが、奈良の美しさを未来に繋いでいく、
何よりも大切な、強い基盤になると思うからです。 

私が現在所属している「奈良県立大学」は、「地域創造学部」を称する単科大学です。
教員も学生も、それぞれの視座から
潜在的な地域の価値を発見し、それを強化、洗練していくという難題に
日々奮闘し、悩みながら、取り組んでいます。 

そんな大学に所属し、教育・研究に携わっている人間として。
何よりも、奈良に暮らし、このまちの美しさを誇りに思うひとりの奈良県民として。 

2010年8月、この美しい奈良のまちで
第1回の なら国際映画祭 が開催されること、
そして、これからもずっとその営みが続いて行くことを、心待ちにしています。


名前:井原 縁(いはら ゆかり)
所属:奈良県立大学地域創造学部 
生年月日:1975年1月11日
専門:造園学(環境デザイン学)、文化遺産(特にランドスケープ遺産)の評価と保全・活用
担当科目:文化遺産論、日本文化論、地域文化論、地域環境保全論

 

自己紹介シリーズ:安西 真由美(理事)

小学生の頃から英語が大好きで、
「英語をしゃべれるようになって、世界の人と話すんだ!」と
潜在的に感じていました。

大学時代のアメリカへの交換留学と世界各地の旅行を経て、
外交官になりたいと思った時期もありましたが、頭脳と忍耐不足にて、
奈良でプチ外交官・・海外からのホームステイを受け入れたり、
奈良に住む外人さんの情報ステーションになったり、
国際交流の場としても使っていただける
NARACAFE 由庵 というカフェをしています。

理事の中野さんからのご紹介で、
第1回目の委員会に呼んでいただき、
河瀬監督やその他現在理事の方々などが集まっていらっしゃる中、
ぎりぎりに飛び込んで、圧倒されながらも
なんとか現在まで理事として参加させていただいています。

河瀬監督作品『沙羅双樹』の舞台となっている奈良町でお店を構えていることもあり、
故郷として、国際的、芸術的に奈良を見てらっしゃる河瀬監督の、
ある意味奈良らしくない表現に魅了され、また女性的なアイデアに共感しどおしです。

『奈良から世界へ、世界から奈良へ』
『"国際観光"都市奈良を、"国際交流"都市に』

そんな『なら国際映画祭』のお手伝いをできたらと思っています。

安西 真由美(NARACAFE 由庵 代表)

自己紹介シリーズ:宇多 滋樹(理事)

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中学生のころ住んでいた大阪府下の枚方市から、
月に一度は自転車に乗って奈良にやってきました。
古代史や社寺に特別興味があるわけではなく、
ただなんとなく奈良公園、西ノ京、斑鳩のあたりをぶらぶらしていただけでした。

大阪のどぶ川の臭いをかぎながら育った私は、奈良の空気を求めていた気がします。
思春期で考えることが多いころなので、
一人で社寺の参道の砂を音たてながら歩くのが好きでした。
もう50年近く前のことになります。

所帯をもった30年前に奈良へやってきました。
当たり前のように奈良旧市街近くの住宅に住みました。
雨上がりに春日山に湧き立つ霧が水墨画のように美しく、
鳥や虫の声が聞き取れる静寂がまだ残っていました。

2001年、河瀬直美監督の『火垂』を観ました。
映画の冒頭とラストシーンでは、東大寺二月堂お水取りの松明の炎から、
人々のかぼそい命のような火の粉が舞い落ちていました。
群舞する火の粉の一粒が自分であるように思えてなりませんでした。

続く『沙羅双樹』でスタッフの一員としてかかわり、
2007年度カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『殯の森』で
主演という大役を担いました。

[ 事務局注釈※宇多理事は、NARAtiveプロジェクトで製作中の
 『光男の栗』にも、俳優として出演中。
  写真:チャオ・イエ監督(左)と宇多理事 ]
 

uda-02.jpg映画は人々を日常では味わえない別世界へと誘う娯楽面と、人々に生きるための思索と勇気を与える面を併せ持っています。
私は63年間生きてきました。
最近特に、娯楽より思索することに重点をおいた映画を選択して観ています。
私は未知なる世界に出会うために、もっと映画にかかわっていきたいと考えています。

長い歴史に育まれた奈良の地で、映画芸術のジャンルにおいて、
世界の人たちが出会える磁場のような「なら国際映画祭」の実現へ、
微力を尽くそうと思っています。

宇多滋樹(ならまち文庫 古書喫茶ちちろ 代表 / 俳優)

 

自己紹介シリーズ:百々 俊二(理事)

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1947  大阪に生まれる
1970  九州産業大学芸術学部写真学科卒
1971  写真集「地平」福岡にて創刊
1972  大阪写真専門学校教員
1978  「大阪天王寺」ニコンサロン写真展
1985  「新世界むかしも今も」ニコンサロン写真展
1986  「新世界むかしも今も」写真集出版
1992  「聚王遊楽バンコク」ニコンサロン写真展
1989  河瀬直美さん大阪写真専門学校映画科卒
 
1990年より、河瀬直美さん大阪写真専門学校助手として活躍。
彼女の行動力と表現意欲に共感。
自主映画「につつまれて」1992制作に、部長として研究費全額与える。
 
1995  写真展・写真集「楽土紀伊半島」にて日本写真協会年度賞受賞
    「萌の朱雀」1996の舞台になった西吉野村なども撮影
1998  ビジュアルアーツ専門学校(旧大阪写真専門学校)校長
2000  写真展「千年楽土紀伊半島」奈良市写真美術館にて個展
 
2001年、30年来の友人 西井一夫氏(毎日新聞社クロニクル編集長、写真評論家)が
ガンで闘病中に、河瀬監督に私(西井)を撮って欲しいと依頼。
 
2002  プロデューサーとしてかかわる「追臆のダンス」TV版スペシャルバージョン
            「A Letter from 桜」(NHK-BS2)
 
2003  カンヌ国際映画祭コンペティション部門 正式出品作品「沙羅双樹」
              プロデューサーの一人として参加。
              映画監督 河瀬直美を主題とした「沙羅双樹」写真集出版。
 
2004  4月24日
「二〇〇四年四月二十四日、映画作家・河瀬直美は、一人の赤ん坊を出産した。
かねてから河瀬の世界を見守ってきた写真家・百々俊二は、出産に立ち会い、克明に撮影する。その結果、完成したのが「花母」シリーズである。しかし、この作品群は単に出産現場を撮ったドキュメンタリーに終わっていない。河瀬が作家として自身の内部に孕み、やがて産み落とされる「物語」そのものを捉えたメタファー的作品として解釈できるだろう。真冬の夜空に打ち上げられた花火で、この写真集『花母』は始まる。これは毎年一月はじめ奈良・若草山の山焼きに先立って打ち上げられる花火である。河瀬の直筆タイトルの後、満開の桜の大木が現れるが、これも奈良・正倉院の裏山に毎年咲く老桜である。柔らかな光に包まれた部屋の中で、出産は進み、そして赤ん坊が産まれる。
子と母と祖母が世代を超えて一つの輪につながる濃密な時間を百々はドラマチックに、かつ厳かに表現している。」
写真集『花母』発行人 野村ヨシノリ
 
2006  花母  Gallery.OUT of PLACE奈良
2007  花母 「ベジタブル.キッチン」 gallery bauhaus東京
    「Ha-Ha」Focale Galerie  スイス・ロカルノ
       「殯の森」カンヌ国際映画祭グランプリ作品。
        プロデューサーの一人として参加。
        2度目のカンヌ最終日感動的時を河瀬監督たちと共有。
        映画は、人の魂をゆさぶることを実感。
2008  映画「七夜待」長谷川京子主演。バンコクにてロケ。
        プロデューサーの一人として参加。

2009  なら国際映画祭発足プロジェクトに参加。

奈良の個有な風土から発信する新しい映画の可能性と
新人映画監督を発掘するプロジェクトをやりたいと考えています。
心はいつも多感な狩人でいたい。


百々 俊二 (ビジュアルアーツ専門学校 校長) 

 

自己紹介シリーズ:鐵東 敦史(理事)

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はじめまして、鐵東です。
ちょっと変わった名前でしょ?「てっとう」と発音します。

生まれた時から奈良に関っている訳ですが、
奈良で仕事をするようになりもう12年になります。
それ以前はSONYに勤めていまして東京に住んでいました。
TOKYO→NARA、都から都ですよ。

現在は「奈良の活性化を目指す総合コミュニケーション企業」
(株)エヌ・アイ・プランニングという会社に所属しています。
この会社は、とてもユニークで若いスタッフがたくさん集まっていて、
奈良の雑誌を作ったりイベントを企画したりウェブサイトの運営をしたり。。。
朝から晩まで結構まじめに奈良の事を考えて仕事しています。
社長も面白い人で、突然、色んな事を言い出します(私の実兄ですが)。

「奈良の活性化とは?」
。。。語ると結構、長くなりますので、またの機会に。

代表的な商品は『タウン情報ぱーぷる』です。
みなさん、ご存知ですか?
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〈タウン情報ぱーぷる 2009年12月号〉


僕は『naranto』という雑誌も作っています。
ナラントと発音しますが、ぱーぷるよりは、大人向けですね。
ターゲット層の違いこそあれ、基本的なコンセプトは同じです。
「奈良の情報をもっともっと発信し、
 奈良に住む人々に奈良の事をもっと知ってもらい
 もっっっと、奈良を楽しく過ごそう!」
 
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〈ナラント 2009年冬号〉


さて、自社の宣伝は以上にします。

そう、『なら国際映画祭』。

なら国際映画祭の存在は当然、以前から知っていました。
もちろん、河瀬監督ともお仕事をさせて頂いたこともありますし、
ぱーぷるやナラントの誌面にて何度も取材させて頂いていました。
奈良に対する熱い想ひ。。。スゲーな、この人と!と(←少しヨイショ)
理事にとお声かけいただき、一緒にお仕事をさせていただくとは。。。
何のご縁でしょうか。。。

僕は生駒市に生まれて中学校まで地元にいました。
映画を観に行くときは。。。難波まで快速で約20分。奈良まで約15分。

たった5分の差。

うぅーん、迷うとこやなー、ミナミまで出たら買いもんとかもできるし、
奈良って何もないからなー、難波にいこ、難波。ってなもんですよ。

今は完全に反対の立場です。
あるよ、奈良には、いろいろある、めっちゃある、あるあるぅーっ!
いい映画館もあるし、いい店もある、オモロい人もいる。
中学生の時には分からなかった事が大人になれば分かった、奈良の良さが。

僕と同じような経験をした人、結構たくさんいると思います。
奈良に住む人だけではなく、奈良と関わった人の中に、
「奈良もいいね」っとその心地良さに触れた経験ありませんか?

なら国際映画祭は、一過性のお祭りでは、ないと思います。

10年、20年。100年?200年?奈良そのもののように。
多くの人たちが奈良の文化を繋ぎ続けて来たように、
僕たちも、まさに、これから始めていく所です。

多くの人たちと一緒に繋げていきたいと思います。
楽しいとき、寂しいとき、人生のいろんなシーンの中で映画にお世話になってきました。
その映画で奈良にまた貢献できる機会がやってきました!奈良にお返しします!


そして、いま、『サポーター大募集中!!!』なんです。


たくさんの人たちと、この映画祭が盛り上がっていく様を
見届けていきたいですね!

鐵東 敦史
1969年5月28日、生駒市 生まれ
株式会社エヌ・アイ・プランニング 所属
常務取締役/naranto編集長

 

自己紹介シリーズ:八坂 豊(理事)

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ホテルマンになりたくて父親のコネで東京のホテルに就職成功。
生粋のホテルビジネスマンとして32年間仕事をしています。

経験した仕事はウエイター・ドアマン・ベルボーイ・
フロントクラーク・国内セールス・海外セールスと総支配人に社長。
仕事場は東京・香港・東京・函館・八丈島・東京・箱根・東京・奈良。

いろいろな場所でいろいろな人と出会い7年前に奈良に来ました。
今は偉大なる田舎である奈良の魅力を
どのように伝えたらよいのかを考える日々です。

なら国際映画祭に魅力を感じるのは、
この偉大なる日本の田舎には“国際”の2文字が似合うと思うから。

この映画祭が地域の方々の楽しみになり、
その気持ちが映画祭に参加される皆さまに伝わり、
参加者もお客様もそしてお迎えする地域のみんなが
幸せを感じられるお祭りになりますように願っています。

今の仕事は奈良ロイヤルホテルでエレベーターボーイ兼社長をしています。


名前:八坂 豊(やさか ゆたか)
(奈良ロイヤルホテル 代表取締役)
生年月日:1954年3月28日
出身地:神奈川県三浦郡葉山町
星座と血液型:牡羊座のO型

 

自己紹介シリーズ:中野 聖子(理事)

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生まれた家は、映画館でした。
なんでも、大正時代に奈良で初めて映画をかけた小屋だったそうです。

幼子をかかえた若夫婦の部屋は、映画館の2階にあって、
階段の踊場を隔てた向こうに映写室がありました。

銀色の缶に入った重たいフィルムを
国鉄奈良駅の日通さんまで受け取りに行く
父のバイクに乗せてもらうのが好きでした。
帰り道はフィルムの上に乗って帰りました。

映画館の入口で、遊んでいました。
大きな刷毛で大きなポスターを貼るおおっちゃんをかっこいいと思いました。
券売場のおばあちゃんの隣に座っていました。
売店のおばちゃんにおやつをご馳走になりました。
バイクの映画を何回も観に来る高校生が後に映画監督になったりしました。

大きな木造建築の映画館は時代の波に淘汰され、
中学生の頃、家業はホテルになりました。

自分でお金を払って映画を観るようになったのは、
それから何年もたってからです。

暗闇の中で大きなスクリーンに映し出される映像を見ることは、
とても贅沢な満ち足りた時間で、
安心して自分の感情と向き合える時間でもありました。


ホテルで働き出すと、奈良を撮影に来る方々をお迎えする立場になることがちらほらありました。
愛してやまない奈良の景色を、映像にして発信してくださる方々のお仕事を
かげながらお手伝いできることは、映画館で育った私としては、・・・まさに感無量。

その映像は、映画だったり、TV番組だったり、CMだったり、教育資料映像だったり、様々ですが、
奈良の景色が映像になる、ただそれだけで、なぜかいつも「やったー!」と思ってしまいます。

この「やったー!」がもっと奈良に広まればいいのに。

この度なら国際映画祭に関わらせて頂くことになり、
複雑に絡み合った因縁を驚きとともに有難く感じております。

世界から奈良へ多くの人々が集い、
奈良から世界へ多くの人々が出て行く、
そんな嬉しい循環を作り出すことが出来ますようにと祈りつつ。

とにかくまずは第一歩目を踏み出すことできますように。


中野 聖子(ホテルサンルート奈良 専務取締役)

自己紹介シリーズ:山田 善久(理事)

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なら国際映画祭の理事をしております山田善久です。
奈良で小さな広告会社を経営いたしております。

映画や音楽が大好きで数年前からは、
appleのiTunesにはまっており、毎月100曲以上をダウンロードしております。

なら国際映画祭実行委員会には
河瀬監督とのご縁で入会させていただいております。

河瀬監督とは、ちょうど3年前、
監督が経済団体に講演に来られたときに初めてお会いしました。
カラーコピーで作ったペラペラの名刺を頂いた記憶があります。
非常に気さくに話をしていただき、頭の回転の速い方だなぁ、
というのが第一印象でした。
後日に私の印象をお聞きしましたら
「よくしゃべるおっさん」ということでした。

その後、カンヌ国際映画祭のグランプリ作品「殯の森」が
最終選考にノミネートされた時に、喜びの電話を頂いたのを鮮明に覚えております。
私のような人間に迄、電話を下さるぐらいですから、
余程色々な人に伝えたかったのだと思います。

「奈良で国際映画祭を開催するのだ!」という河瀬監督の熱い想いに
少しでもお役に立ちたいと実行委員会の理事を受けさせていただいております。
大変厳しい経済環境のなか、資金集め等、問題は多くあります。
しかし厳しい中での事業こそが永く続く、本物の映画祭になると信じております。

手作りでもおいしい味のある、奈良らしい映画祭を作って参ります。
サポーターや皆様のご支援をお願いいたします。


山田 善久 (大光宣伝株式会社 代表取締役社長)

自己紹介シリーズ:堀井 清孝(専務理事)

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なら国際映画祭に関わるきっかけ…。
それはやはり河瀬直美監督だろう。
 
監督との出会いは2004年の4月、あるNPOの設立の時だった。
それ以来何度となく行動を共にすることはあったが、
元来あまのじゃくな私は監督とあえて話をすることもなく月日が流れた。
 
2006年10月9日の夜、初めて二人で話した。
監督のこと。
私のこと。
これまでのこと。
奈良のこと。
これからのこと。
それから持ちつ持たれつの関係が始まった。
 
さて、私にとって河瀬直美という女性はというと…
“とんでもない”・・ひとなのだ。
 
“とんでもない”というのは、強い創作意欲が故に、
稀に私には理解できない行動や発言があるということだ。
 
私はよく監督のことを聞かれた時、
「彼女は天才です」
と答えるようにしている。
 
事実、カンヌ国際映画祭で史上最年少「カメラドール」受賞。
同映画祭で日本人として二人目となる「グランプリ」の受賞。
そして、女性としては世界で初めて受賞した「金の馬車賞」。
その他にも数々の国際映画祭での受賞等など…。
映画界で類まれな評価を得ている。
 
だから、彼女が世界で見聞きし経験したことから起こる言動が、
私に“とんでもない”と感じさせるのかもしれない。
 
とはいえ、ひとは一人では生きていけない。
それは、彼女のように「多くの繋がりをいただいた・・ひと」ほど、
一層強く感じているに違いないのだ。
お互いの無いところを補い合い、
原動力に変えていくことの大切さを、
彼女ほど望んでいる・・ひとはいないのではないだろうか。
 
歩み始めたばかりの「なら国際映画祭」も将にそんな状況だ。
新しい出来事を起こすために、いろんな人が関わり合い
長所も短所も補いながら暗中模索が続いている。
 
しかし、その道程がどうであれ、大切なのは
『本質』を自らが迷うことなく貫くこと。
貫かなければいけないものを捨ててしまっては、
新しい出来事は起こせないと思うからである。
 
奈良という街にふさわしい、つくりものではない映画祭。
世界に誇れる奈良の資産を活かした映画祭を行うこと。
それは規模の大小に関わらず『本物』でなければいけないと思っている。
それが、奈良という土地が果たすべき使命であり、
世界が求めることであり、
奈良が世界へ羽ばたくキーワードになると私は信じている。
 
最後に、私にとっての「なら国際映画祭」とは、
これを実現させ、継続させることで多くの人々の交流が生まれ、
奈良の活性化へ繋がる事業にならなければいけないと思っている。
 
奈良へ思いのある多くの人々と“はじめの第一歩”を、
これからの「なら」に思いを馳せながら歩みたい。
ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
 

堀井 清孝 (共栄印刷株式会社 代表取締役 社長) 

自己紹介シリーズ:鷲田 清一(理事長)

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奈良という地から世界に表現を送りつづけている河瀬直美さんと、
奈良の新しい「元気」を模索しておられる中堅世代のひとたちを応援したくて、
このNPOの理事長を引き受けさせていただきました。

奈良といえばあの「なら国際映画祭」と言われるような、
新しい「世界都市」奈良の顔になれたら、という思いでいます。

子どもからおとしよりまで、全世代型の活動になるよう、
どうかみなさまのご支援をよろしくお願いいたします。


鷲田 清一(哲学者、大阪大学総長)

自己紹介シリーズ:平井 陽出一(理事・事務局長)

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田舎で、おせっかいで、地味で、やぼったい・・・
19の時、奈良が嫌いで嫌いで東京に出た

見るもの全てが新しくオシャレに見え、
田舎者にもとってもやさしいまちだった
 
音楽、演劇、文学、アートに囲まれ
好きなだけ好きな事をし、
スポンジのようにいろんなことを吸い込んだ
当然ながら映画もその中のひとつだった
 
1997年奈良を出て8年がすぎ
少なからず都会に未練を残して、縁あって奈良に戻ったとき
奈良出身の若手監督が史上最年少で
カンヌの新人賞を受賞したと言うニュースが飛び込んできた
しかも自分の生まれ故郷「吉野」で地元の人をキャストに選んで、
そこで生活しながらの撮影.....
思いっきりハンマーで頭を殴られたようなそんな衝撃を受けた
 

嬉しくて嬉しくて東京の友人に片っ端に電話をし
その興奮を伝えた。。。。

 
同時に自分を育ててくれたこのまちに
いままでとっても失礼な事をしていたような
自分の価値観がとても偏狭でちっぽけに
おもわずにいれなかった
 
以来、ふるさと奈良を強く意識するようになった
 
自然がたくさん残り
素朴で人懐っこいひとたち
洗練されすぎない「ゆとりとすきま」
趣のある湿った路地
整備しないありのままの土塀
まちなかの神社や寺院の静寂
 
鹿や大仏もいいけど
そればかりじゃないならのいいところが
だんだんと見えてくる
スローライフをもとめて
都会から奈良に移り住む人がとても多いことも知った
 
いつか奈良で大好きな映画に関わりたい
漠然とそんな思いを描き
奈良青年会議所に所属をし少しずつ地域の事をまなびながら
燈花会や遷都祭にも関わった
 
 
あのときから12年、
ご縁があって,この7月より
なら国際映画祭に関わらせて頂くことになりました
 
他のどこの映画祭にも無いオリジナリティー
奈良を世界中に発信できる
奈良が元気になる映画祭を目指しています
 
ド派手な宣伝や、演出ではなく奈良らしい
素朴さと上品さと心のこもったおもてなしのできる
そんな映画祭の開催が夢です
 
そして奈良に住むこども達が
このまちに生まれてよかったと本当に思えるような
映画祭をじっくり開催してゆきたいと思っています
 
事務局長をさせて頂きます
普段は柿の葉ずし「平宗」の工場長をしております
平井 陽出一(ひらい ひでかず)と申します
 
よろしくおねがいします

 

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